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肩書き:デンタル・Pター・パンこと、院長
血液型:O型(A型と良く言われるんですが。。。)
趣味:旅行、読書、サッカー大好き、スポーツ系なら何でもOK,語学研修
2009年 年間目標
・峰歯科診療所は、むし歯予防「1番宣言!」をさせていただきます!
・「あそこはむし歯予防が専門だね。」と評判の歯科医院を目指します。
・「あそこに行けば、新しくむし歯にならない。」と噂される歯科医院を目指します。
・「あそこの治療は痛くない。」と評判の歯科医院を目指します。
・対馬でも予防歯科型の歯科医院を実践することで、住民の方々や患者様へご奉仕することを目指します。
・むし歯予防「ゼロ・プロジェクト」を達成します。
・当院に来院する子供達のむし歯を「0=ゼロ」にします。
・来院してくださいます患者様方の期待以上の歯科治療を行います。
・アメリカで学んだ歯科医学の知識を自分の特徴とし、妥協のしない、歯科医学に基づいた歯科医療をへき地の対馬でも胸を張って実践します。
・「この歯は峰の先生に治療してもらった。」と患者様方が、言いたくなる様な治療を目指します。
・対馬にもこんな歯科医院があったんだと思われ、島外に歯科治療を受けに行く人を可能な限り減らせるような、魅力ある歯科医院作りに取り組みます。
・対馬で女の子が働きたいランキングNO.1の職場にします。
・保護者の方々に「うちの娘をあのスタッフの様にしたい。」と言わせるような、「輝くスタッフ」を育てます。
・当院の仕事に前向きに取り組むスタッフ達に「ありがとうの言葉」をはっきりと言います。
・仕事を通じてスタッフの成長を援助します。
・スタッフが「ここで働いて良かった。」と言いたくなる様な職場にします。
・2009年3月に定検人数100人を達成し、スタッフ達の夢「デイズニーランドホテルに泊まる3泊4日・デイズニーランドの旅」をプレゼントします。
元気が出るセルフトーク:
むし歯予防「1番宣言!」させていただきます!
皆さん改めまして、「こんにちは。」峰歯科診療所の所長をしております、歯科医師・歯学博士の御手洗 聖史(みたらい やすし)と申します。私がどのような人生の軌跡を歩き今に至ったかを知っていただきたいと思い、自己紹介の文章を書いてみましたので、最後までお読みいただけましたら幸いと思っています。
私は、平成2年の春に福岡歯科大学を卒業しましたので、歯科医になって、はや19年、そして、対馬に平成11年の春に戻りましたので峰歯科診療所で開業して10年が経ちました。
私は、対馬市(旧:峰町)が開設している峰歯科診療所でお世話になっています。実は以前は、父がこの「峰町立歯科診療所(対馬市合併後に名称変更、現在の峰歯科診療所へ変更。)」の時代、今を遡ること30年前に、「峰町が無歯科医地区になるので帰って来て欲しい。」と当時の峰町会議長の故 阿比留氏正毅氏より依頼され、湯布院の歯科医院をたたんで、郷里峰町の為にと戻って来た事が、事の始まります。
さて、私の父は65歳の時にこの峰町立歯科診療所を退職しました。理由は、「町の皆様方の歯の健康を預かる歯科医が高齢では、町民の方々にご迷惑をかけるから。」と町民の方々を思っての決断でした。その後一度、別の歯科医の先生が、当院を担当され診療をされましたが、まもなく、ご自身の地元に帰られました。
そこで、この病院を担当する新しい歯科医師を峰町が求めた時に、大学院を卒業し、福岡市の歯科医院で勤務医としてキャリアを積んでいた、私に白羽の矢が立ったのです。
当時、勤務していた福岡市・博多駅近くの U 歯科医院(以降、 U 歯科)は、院長先生が日本でも指折りの有名歯科医ということ、また、博多駅の近くという交通の便から、福岡市はもとより、遠くより新幹線やまた飛行機で来院される方もおられる最高の歯科医院でした。院長先生も、学術的にも、技術的にも、そして、お人柄のお力で、素晴しい歯科医療をされていました。私も先生のご薫陶を受け、自分なりの努力を U 歯科でしていました。そのお陰で、歯科医学に基づいた診療体系の確立・根管治療・矯正治療・インプラント治療・親知らずの抜歯・セラミックによる審美歯科治療・歯周病治療等を U 歯科で実践を通じて学ぶことができました。
そんな、素晴しいキャリアを U 歯科医院で積んでいた私でしたが、転機はある日突然訪れました。父から「峰町立歯科診療所の歯科医師が退職したので、新たに歯科医師を探している。おまえが行ってはどうか。」と・・・。当時、 U 歯科医院で勤務し2年目だった私はレベルの高い仕事にもようやく慣れ、自分で患者様方にあわせた最良の歯科診療計画を立てれるようになり、院長先生からも頼られる存在になっていたため、油の乗りかけたこのキャリアを途中で止める事に非常に抵抗を感じました。また、 U 歯科医院の院長先生も私の退職には反対でした。しかし、父と同様に、当時の峰町の町会議長 故 阿比留蔵男(父を呼び戻した阿比留議長の子供さんで、2代続けて、町会議長になった故人です。)と峰町の前町長小西清明氏が U 歯科医院と院長先生を訪問され、直談判のうえ、退職の許可をとりつけられました。その結果、私は「峰町立歯科診療所」に来る事になりました。親子2代、峰歯科診療所を通じて、対馬や峰の住民の方々のために「歯科医歯として働く。」ことは、私たち血筋の運命だったのだとつくづく感じさせられました。
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わが家は、もともとが対馬市・峰町が本流の家なので、私の生まれが「対馬・峰じゃないの?」とよく不思議がられます。その話しからしてみようと思います。
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| 可愛がってくれた婆ちゃんと姉ちゃん。 |
私の父「博之」は戦後の混乱の時期に、苦学の末、九州歯科大学に入学し、その卒業後、自衛隊の歯科医官となり歯科医師としての第一歩を記しました。父は自衛隊の転勤の関係で、別府駐屯地に移り、その後別府駐屯地より「由布院駐屯地の近くで歯科を開業して欲しい。」との要望に応えるかたちで、湯布院町で歯科医院を開業する(父は開業前に自衛隊を除隊しました。)ことになりました。父の仕事の関係により、私は湯布院で昭和40年10月16日に生まれたため、出生地が対馬ではなく、「大分県・湯布院町」なのです。 私の名前には、「聖」の字が入っているため、「東京オリンピックの年=昭和39年に生まれたの?」と尋ねられることもあります。生まれた直後、母親の話しによると、「おぎゃー!」と直ぐに泣かなかったので、かなりお尻を叩かれたそうです。
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| 愛する由布岳と湯布院の家の前で。(小学5年生) |
幼少期の思い出は、湯布院の自然の中で遊んだ事ばかりですね。私が住んでいたころの湯布院は、いまの「観光のメッカの由布院」ではなく、「奥別府」という位置づけの「ただの田舎町」でした。観光客もおらず、車の交通量も少なかったので、ちゃりんこで町中を友達と遊びまわっていました。湯布院で最も好きな場所は「由布岳」です。一度、登山をして頂上まで行ったことがあります。頂上の足場って、本当に小さくて、転がり落ちるんじゃないかと思った記憶があります。雄大でいつも私たちを暖かく見守ってくれる「由布岳」は、私の心の故郷です。この年になっても、由布岳の凛とした姿を見ると、特別な感情が湧き出てきます。それから、由布川という川が家の前にあったのですが、5〜6歳頃だったと思いますが、蛍の季節はその川べりに「蛍の吹雪」と言えるほど、蛍が飛び回っていた幻想的な風景を記憶の中に覚えています。それから、僕たちにとっては、遊び場所だった「金鱗湖」、時には泳いだり、川魚を捕まえたりしました。金鱗湖で泳いだあとは、すぐに、隣の共同浴場に「ザブン」とつかり、土垢を落としたものでした。おそらく、観光化された由布院の今日では、金鱗湖は遊泳禁止、更に、湖畔から共同浴場に入り込むこともできなくなっていると思われます。今考えると、最高に贅沢な遊びをしていた様な気さえします。
先も述べたように、父は自衛隊出身ということもあり、お風呂の中で幼少時代姉と一緒に、軍歌を良く歌わされました。「月月火水木金金」とか「ああ、ラバウル航空隊」とか、今でも歌えますよ(笑)!そんな事が、今になってご年配の患者様との会話のきっかけになるとは思っていませんでした、当時は・・・。
今でももちろんそうですが、学校で友達と遊ぶことなどは好きでしたが、算数や国語など小学校の成績は良くありませんでしたし、当時とても太っていたので、運動神経も良くなく、運動会のかけっこが大の苦手でした。そんな、今の面影のかけらもない、幼少期を過ごしました。
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さて、私は中学受験をする事になりました。その当時、とても田舎だった湯布院町から中学受験をする様な子供はいませんでした。中学受験の際、第一志望であった長崎のある私立中学の試験の際には、全く歯が立たず、試験の途中で諦めてしまいうつろな時間を過ごしていると、試験官から「もう少し頑張ってみなさい。」と諭されるほどでした。
しかし、ここで私の人生に「最初の奇跡」が起こりました。
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| 親元を離れ、マリスト中学入学式に向かう朝。 |
結果的に進学する事になった熊本マリスト学園中学、有名な鹿児島・ラサール学園の滑り止めの学校(マリスト関係者の方、失礼な表現お許し下さい。)と当時はみられていました。平年であれば本命ラサール、マリストを併願が定番のパターンだったのですが、私達の年だけは、何故かラサールがマリストの受験日に試験日を設定したため、この年だけは両校への併願ができず、ラサールを狙う子供はラサールのみ、そして、マリストはマリストの希望者のみと、受験生の振り分けがおきました。
その為、その年のマリスト受験生は近年にないランクの低さだったと、入学後にマリストの先生から聞きました。中学1年生の入学生が108名、私は入学した同級生の中で、入学試験の点数が102番手だったと聞きました。もし、ラサールとマリストの受験日程の関係が例年通りだったら、ラサール希望者もマリスト中学を併願し受験していたでしょうから、おそらく、できの悪かった私はマリスト中学には合格できなかったと思います。
私におきた、「最初の奇跡」がこれでした。
親父は湯布院の様な田舎にいては、本当に「歯科医師になりたい。」と頑張っても難しいからと、無理を承知で向かわせた中学受験、運命の歯車が大きく動いた瞬間でした。
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| サッカー好きは中高時代から!サッカー部の仲間と。 |
私ができの悪い高校1年生の時、たまたまついていたTV番組のナレーションから聞こえてきた声に耳が止まりました。「将来、親に恥をかかせる様な子供にはなるまい。」、それは、アメリカの躍進を支えたフォード社長の立身出世物語を伝える番組のあるナレーションの一言でした。「僕もそうしよう。」、「僕はお父さん・お母さんの自慢の息子になるんだ。」と心の中で誓いました。
しかし、当時の私は中・高一貫教育の全寮制の進学校に行っていたものの、成績は下の上程度でどの模擬試験を受けても偏差値最低の私立の歯科大学でさえ判定はCかD、とても、歯科大学に合格し、歯科医師に成れるというものではありませんでした。
大学受験に向けて、「何とかなるだろう、落ちないよなあ〜。あの先輩でも合格したんだから...。」等など、自分に言い聞かせるように、福岡歯科大学を受験しました。 そこで、「2度目の奇跡」が起こることになります。
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| マリスト高校卒業式直前頃。国語の先生とクラスメートと一緒に。 |
劣等生だった私は福岡歯科大学に現役で合格しました。本当に奇跡でした。しかし、そこには少なからず必然性がありました、というのは、私が受験する2〜3年前に歯科大学入学試験の倍率はピークだったようです。しかし、同時にその頃に歯科医師のある問題が社会的に認知され、私が受験する前年、そして、受験年と競争倍率が減少していったと聞いています。また、私達の巳年の翌年は丙午の年、子供数が若干減少傾向であった事、など等が幸いしてか、現役で福岡歯科大学に合格しました。
「父のような歯科医師になりたい。」という、幼い頃からの「夢の扉」が開いた瞬間でした。
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| 6年間レギュラーになれず苦しんだテニス部。 |
さて、晴れて歯科大学に入学した私に3度目、「人生最大の奇跡」が起こります。
大学に入り、私の人生は180度変わりました。
大学では、「勉強ができ、頼れる人。」に大変身する事になりました。
福岡歯科大学に入学すると、そこは大学のキャンパス、遊び・車・お金に酒等という言葉が飛び交う場所でした。歯科大学には入学したものの、大学に入り、大学の生活に馴染めず、学部の講義も長く・難しい...。中・高と劣等生だった私には、大学でのキャンパス・ライフは最初から不安がつきまとうものでした。周囲の友達らは、先輩からの指導を受け「代返」等を憶え、講義開始早々、教室の後ろから抜け出し、大学生活を満喫していました。「御手洗行くぜ!」と言われても、僕には恐ろしくてとうていできるものではありませんでした。教室に残ると講義を受けざるを得なくなります。
その当時の私の唯一の特技「居眠りができない。」事が、私の人生を変えることになりました。講義中、居眠りができず、ただひたすら、講義のノートだけはとっていました。理由なのかわかりませんが、講義内容が綺麗に書かれている、ノートを見るのが好きだったからです。4月末になると、化学の教授が連休明けに試験をすると言い出しました。勿論大嫌いなテスト、自分の中に緊張が走りました。
そんな時、「三度目の奇跡の扉」が私に近づいてきました。
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| 大学の謝恩会。何故か最後は壇上の中央で万歳の音頭とり! |
講義が終わり、昼休みに学生ホールで昼食を食べながら、友人らと話をしていると、ラグビー部のそれまではあまり口も聞いた事がなかった友人が私のところに来て、こう言いました。「今度の試験の勉強を教えて欲しいけん、今晩電話させて...。電話番号教えて...。」と言うものでした。私が人から勉強を教えてと初めて言われた瞬間でした。入学後、大学には30分前には登校し、部活をし、お金の貸し借りを言わない、また、授業をすっぽかす事も無い。入学後から、周囲の友人には頼まれごとを受けていた事もあり、周囲に座っていた仲の良い友人の前でカッコ悪い事が言えずに、「イイよ。」と言ってしまいました。勿論、その日もテニス部の部活がありました。部活が終わり、家に帰り、化学のノートを開き、教科書を見ました。その中には、高校時代に苦しんだアルファベットの記号や亀の甲羅のマークが沢山書いていました。
今でも思い出しますが、正直まるっきり分かりませんでした。いっとき、ノートを見ていると、電話が鳴りました。「あ〜、本当にかかって来た。」と思いながら、電話に出ると、ラグビー部の友人H君でした。「御手洗、悪いっちゃけど、化学、全く分からんけん、試験に出そうな所教えてくれん!頼む!」と、部活を終え、疲れた声で彼は私に言いました。
彼は大分のある町の出身者でした。今では、「生まれ故郷の湯布院」に対する望郷の念というものも、あまり感じないのですが、その当時は、大分そして湯布院に対する望郷の念が強く、大分県出身の友人に何とか協力したく自分なりに一生懸命でした。何故なら、私が分からないと断ると、その後友人はどうやって、この試験を乗り越えるのか、心配だったからです。友人の為にと、自分なりに分かる範囲で30分程解説した事を憶えています。電話の最後に友人がお礼と共に一言私にこう言いました。「ありがとう。これからも宜しくな!」でした。
その時に私の中で何かが変わりました。「人から頼られる喜びを知った」のです。
「これからは、人に頼られる人になろう。そんな人になれるように努力をしよう。」と思いました。電話を切った後に電話口でH君が言っていた、試験勉強の資料=まとめを夜に直ぐ作り、次の日に大学に持参しました。
学校で友人に見せ、話しをすると、「コピーをさせて。」と周囲の友人らほとんどがコピーをし、家に持ち帰りました。それ以降大学を卒業するまでの6年間、試験の1週間前には資料が友人に渡るようにと試験の2週間ぐらい前から試験のまとめをする様にしていました。ですから、私の試験の資料は1週間ほど前に試験対策が手に入ると大変好評で、同学年のほぼ全員が持つような試験対策の資料へと成長していました。おそらくどの同級生も、私の試験の資料を最低一度はコピーして持っていた事があると思います。
さて、話しを戻し、化学の試験、自分の手応えでは、そんなにできた感触もありませんでした。試験後の最初の化学の講義の際に、化学の教授が「95点以上(120点満点)とったものの名前を発表する。」と言いました。呼び出された学生は7名、私も「98点 D 組 御手洗君」と皆の前で呼ばれました。
その時から、「御手洗はできる、御手洗は頼れる。」と周囲の友人らに認められるようになり、「中高時代のダメだった御手洗君はその日に幕を閉じ。」、それからの私は違う人生を歩む事になりました。
大学時代は、その様な事情から、常に成績は学年で5番以内でトップクラス、本気で特待生(全教科の平均点が90点以上をとり、学年の模範になれるような存在と大学が判定されること。)を狙った事もありました。正直な所、結果的に特待生になることはできませんでしたが、おそらく自己採点では平均88点以上はとれていたはずなので、特待生になるチャンスが私には現実的にあったと思っています。特待生に何故なりたかったかと言うと、特待生になると1年間の学費が大学より免除され、親孝行ができるかなと真剣に思っていたからです。
大学進学後に、マリストの友人に同窓会等で会う事がありますが、私の名刺に、歯学博士と書いてあるのを見て、「信じられない。お前は何の勉強ばしたとや〜!?」と疑問を投げかけられます。本当に、それまでとは人生までも変わってしまったのです。
大学では、学年委員長をし、学園祭実行委員、体育会の役員等をする事になりました。
そうやって、私は周りの友人の見えない力で、自分を変えることに成功しました。大学入学後、卒業後もそんな自分になり、何かあったら頼られる、そして、それ以上に応える事を努力する人間になれたと、周囲の方々に感謝しています。
福岡歯科大学を卒業し、歯科医師国家試験も無事に合格し、私は歯科医師になることができました。多くの方々から、「おまえは苦労知らずだ・・・。」等と言われることがありましたが、これまでの内容いかがでしたか。少しは苦労をし、苦しんでもいるんですよ(笑)!
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| 大学院時代。下段中央が境教授。後列左より3人目が私です。 |
さて、歯科大学卒業後、私は福岡歯科大学の大学院で予防歯科学を専攻し、博士号を取得しました。学生時代は、歯科医師である父から矯正歯科の大学院に行くように言われていたのですが、大学院時代に私を指導してくれた、境脩教授が新潟大学より赴任され予防歯科学の重要性と将来性、そして、そのグローバルスタンダードな視野の広さに憧れ、生まれて初めて父からの指導を断り、自分で選んだ道=予防歯科学を専攻する事にしました。
詳細は記述しませんが、大学院時代は、とても辛く、厳しい時期を過ごしました。何度も大学院を中退しようと思うほど辛いものでした。しかし、何とか踏みとどまれたのは、やはり中学時代の寮生活時代に苦しみ、「マリストをやめたい。」と言ったときに、父はこう言って私の意見を遮りました。「もし、今、マリストをやめたら、おまえは、一生、すぐやめる男になる。だから、それは許さない。」。その時の父の一言は、私の魂の中に焼きこまれていたのです。大学院はやめたくても、マリストの時と同じ様にやめることはできませんでした。
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| 大学院時代に世界の先生方と交流するきっかけができました。 |
大学院の卒業時、晴れて卒業論文(=博士号の学位論文)をまとめ、大学院を無事に卒業する事ができました。学位論文は、「幼児期におけるフッ素洗口とS. mutansの関連性について」というものです。大学院時代に指導をしていただいた、境教授、ならびに、直接、フッ素の定量を指導していただいた現渡辺猛助教授には今でも心から感謝しております。
私が大学院で師事した境脩教授の事を少し紹介したいと思います。境教授は、本当に優れた実践型タイプの教授でした。何よりも、「計画を立てて」、「やり出すこと」を重要視される先生でした。フッ素によるむし歯予防法の世界的な権威の先生でしたが、とても友好的で、ユーモアセンスにあふれ、早くからコンピューターを使っていた方で、かつ、語学も堪能でした。境教授のもとには、世界中から訪問される研究者や各界の先生方たくさんおられました。その方々の、お世話係を私は担当をする事が多く、結果的に私は英語を使わざるを得なくなりました。そんな、研究室に入局したことが幸いし、私はいつの間にか、英会話ができるようになっていました。
私は、英会話が大好きです。やはり、違う文化を持った方々と交流できることは何よりも素晴しい体験で、人生を飛躍的に豊かにしてくれます。福岡市に住んでいたころは、中国語教室に家内と通いました。
また、4年前より、フランス語、ドイツ語、スペイン語もNHKの語学講座で毎日勉強しています。それらの言葉もさすがに4年も続けているので、だいぶ分かってきました。先日、学会で行ったアメリカ、ロスアンジェルスはメキシコに国境が近いこともあり、私の部屋のハウスキーパーがメキシコ出身者で英語が分からなかったので、片言のスペイン語で会話をし、楽しい一時を過ごすことができました。今では、マルチ・リンガルもどきですが、ふと考えると、何か音楽=楽器ができたら良かったですね。何故なら、音楽は全ての語学を超えて、人々と共感する事ができるからです。
語学を勉強すれば、するほど音楽の大切さを感じます。
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とうとう、自己紹介の最終章に入りました。対馬に来て、峰歯科診療所を開業してからは、やはり、離島地区の田舎で地道に暮らす方々から、たくさん教えられることばかりの日々が続いています。
特に総入れ歯は、福岡の中心部博多駅近くの歯科医院では、上下ともに総入れ歯の患者さんは1人も診たことがありませんでしたので、対馬に来て、「歯を全部抜いて、総入れ歯にして欲しい。」と言われる患者様の多さにビックリしました。この10年間で、総入れ歯は300組以上は作成したと思います。その方々との臨床経験を通じて、今では、総入れ歯の作成は私が最も力を入れている歯科治療内容で、私は総義歯作成には特に自信を持っています。総入れ歯に重要なのは、噛み合わせの理論なのです。私の総入れ歯を入れて、噛んでいただければ、すぐに違いが分かると思います。
さて、父が私に望んだ「矯正歯科」ですが、私は勤務医時代、そして、次に紹介する私の恩師:釧路市でご開業の高田泰先生との出会いで確立されました。恩師・高田泰先生との出会いは、ある栃木の歯科医師の友人からの紹介がきっかけでした。「30年分の、君の歯科医師、一生分の小児・矯正歯科診療が勉強できるセミナーがあるので参加しないか?」という誘いでした。栃木まで、どう考えても遠すぎますよね。対馬→福岡→東京→栃木・宇都宮でした。実際の所は、栃木まで冬場の日程と言うこともあり、行きたくなかったのですが、ある日「受講申込書なるものが勝手に届き」、受講せざるを得なくなり、栃木に渋々通う事になりました。しかし、高田先生のセミナーを受講をしてみると、私の怠惰な心がまえが間違いである事に気付かされました。高田先生の咬合育成理論の素晴しさを知り、「この大切な歯科医学を自分達の世代に引き継がなくてはいけない。」とセミナーを通じて確信し、その後は、九州で高田先生のセミナーを開講するお手伝いの機会を頂き、3年間、高田先生を師事し、咬合育成の理論を基礎からしっかりと学び受けました。
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| 審美歯科を創設された歯科の歴史に名を残すアメリカ アトランタ市で開業の ロナルド ゴールドスタイン 先生から4年間に渡って直接指導を受けています。 |
咬合育成理論を簡単に説明すると、「0歳から始める不正咬合の予防法」が分かりやすいかと思います。つまり、赤ん坊の授乳習慣や離乳から、将来の歯並びがかなりの確立で予測することができ、また、舌・口腔周囲筋の機能を修正・強化する事で、良い歯並びを獲得することはでき、そして、子供の将来に繋げることができると言うものです。この考えは、5年前には九州には全く無かったため、「九州の歯科医学の発展と子供達の幸せを信じ。」、私財を投じ高田先生を九州に招聘し、咬合育成の勉強会を起こし、仲間を募り、そして、その勉強会の代表も3年間しました。長く同じ人間が代表をすると、組織が腐敗するので、3年目に長の座を自らおりました。咬合育成の勉強会は沢山の先生方に支えられ、今でも福岡でセミナーが継続開催されています。また、この熱は友人の手により、関西にも広がる事になりました。この咬合育成の力で、未来ある沢山の子供たちを幸せにできたと確信しています。これこそ、総入れ歯とともに歯科医師としての幸せ、醍醐味と思っています。矯正治療というカテゴリーの治療内容ではありますが、私の矯正治療はこの咬合育成を基盤にしたもので、私の歯科診療を大きく支えてくれています。
そして、私のライフワークの一翼でもあります、「世界に羽ばたく日本人。」というテーマに関して、最後に一言触れておきたいと思います。
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| 元ペンシルバニア大学歯学部長 アーノルド ワイスゴールド先生より指導を受ける。 |
私は小さな頃に「兼高かおる世界の旅」という番組を見るのが、とても楽しみでした。世界中を飛行機に乗って駆け巡り、世界の人々と、日本人としてお付き合いをする、何て素晴しいことなんだろうと、子供心に胸がときめいていました。私の父は、昔気質の人間で海外旅行なんてとんでもないと思っていたので、私は大学を卒業するまでは、海外に憧れはするけれども、旅行する機会は一度もありませんでした。しかし、大学院で境教授にお世話になった事をきっかけに、海外の方々との交流がはじまりました。今では、世界で最初に審美歯科を提唱し学会を創設した、アトランタ市で開業のゴールドスタイン先生やペンシルバニア大学の元教授のアムステルダム先生をはじめ、多くの世界的に著名な歯科医師の先生方とも学術的な交流、さらには、家族ぐるみの私的なお付き合いまでさせていただく機会を私の人生にあたえていただいております。世界に羽ばたく日本人になるという「夢」達成することができました。
最後に対馬の子供たちへメッセージを伝え、私の自己紹介を終えたいと思います。
対馬に居たって、本当にやる気があればできる。そして、自分の人生を最高に輝かせるための苦労を厭わないこと。明るく、楽しく、そして、何より、やり始め、継続すること!
こんなにダメだった、僕でさえ、世界に認められるところまで、達することができたのだから。
君にもできる!自分の可能性を信じて、勇気を持って生き抜こう!